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2014年07月09日
座禅会
7月12日に志布志市大慈寺で行われる座禅会のための資料です。
参加される方はご拝読いただける幸いです。
禅とは?
禅とは?心の別名です。
ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念の心境を禅定と呼び、ほとけの心のことです。
私たちの心は、もとより清浄な「ほとけ」であるにも関わらず、他の存在と自分とを違えて、対象化しながら距離と境界を築き、自らの都合や立場を守ろうとする我欲によって、曇りを生じさせてしまいます。
世の中、意のままにならないものですが、正確には我欲のままにならないということです。禅語の「如意」は意の如くと、思いのままになることを言いますが「如意」の「意」は我欲のことではなく、自他の境界と距離を超えた森羅万象に共通するほとけの心のことを指しています。
この「ほとけ」の心の働きには「智慧」と「慈悲」があり、それは認許とも言い換えられます。自分とは違う相手を許し認め、自分とひとつとする「不生不滅・不垢不浄・不増不減」の空の価値観に立つおおらかな心のことです。
自他の距離と境界を越えるには、自分自身を空しくすることです。禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです

坐禅とは?
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。
「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、定着する、などの意味だと辞典にあります。要するに、動かないように安定させることです。
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。
次に「禅」ですが、これは「禅那」といい、サンスクリットの dhyana とか、パーリー語の jhana とかの音写で、静慮と漢訳されます。現代の中国語では、channa と発音するようですが、静慮の意味であることに変わりはありません。ただ静慮という訳は、適訳ではないので余り用いられず、「禅」で通っています。そして、禅那とは、心統一の因だといわれますから、坐ることによって身・息・心を統一し、または統一しつつある状態が坐禅だということになります。
..

禅は自分を見つめなおすものです。
「洗心」という禅語があります。「心を洗う」ということですが、要するに、反省だとか自分を見つめなおすとか、日常の中で「自己の点検を怠らないようにする」ということであります。掃除を怠ければ部屋が汚れていくように、人間の心も手入れを怠れば、汚れていくものです。
誰もが生まれながらにして有している純粋な心を「仏性」と申しますが、誰かの仏性に触れ合ったとき、今の自分の生き方は正しいといえるだろうか?と自分に問いかけてみたいものです。そうやって今の自分を振り返る中で、気づかぬうちにたまってしまった心の垢に気づくかもしれません。
そんなとき、心の汚れを落とす必要性に気づくはずです。では、心の汚れを落とすには、どうすればいいのでしょうか?それは、善行を積むということです。他を思いやる、他に感謝する。他人の指摘を素直に受け入れ、改善していく・・・。長年、溜まってしまった心の垢は、簡単には落としきれないかもしれません。
それでも、何度も何度も洗っていくうちに、自然と元の純粋な心が蘇ってきます。それは、あたかも、泥水を何度もふるいにかけて、きれいな水にするような―それは、地道で根気のいる作業ですが、今、洗浄し始めた心が、一年後には、きれいになっているはずです。そして、もしかすると、一年後の世界には、今の自分とは違った自分がいるかもしれません。それは、皆さん次第です。
(文献は勝林寺のHPより引用、画像はYAHOOより引用させていただきました)
参加される方はご拝読いただける幸いです。
禅とは?
禅とは?心の別名です。
ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念の心境を禅定と呼び、ほとけの心のことです。
私たちの心は、もとより清浄な「ほとけ」であるにも関わらず、他の存在と自分とを違えて、対象化しながら距離と境界を築き、自らの都合や立場を守ろうとする我欲によって、曇りを生じさせてしまいます。
世の中、意のままにならないものですが、正確には我欲のままにならないということです。禅語の「如意」は意の如くと、思いのままになることを言いますが「如意」の「意」は我欲のことではなく、自他の境界と距離を超えた森羅万象に共通するほとけの心のことを指しています。
この「ほとけ」の心の働きには「智慧」と「慈悲」があり、それは認許とも言い換えられます。自分とは違う相手を許し認め、自分とひとつとする「不生不滅・不垢不浄・不増不減」の空の価値観に立つおおらかな心のことです。
自他の距離と境界を越えるには、自分自身を空しくすることです。禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです

坐禅とは?
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。
「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、定着する、などの意味だと辞典にあります。要するに、動かないように安定させることです。
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。
次に「禅」ですが、これは「禅那」といい、サンスクリットの dhyana とか、パーリー語の jhana とかの音写で、静慮と漢訳されます。現代の中国語では、channa と発音するようですが、静慮の意味であることに変わりはありません。ただ静慮という訳は、適訳ではないので余り用いられず、「禅」で通っています。そして、禅那とは、心統一の因だといわれますから、坐ることによって身・息・心を統一し、または統一しつつある状態が坐禅だということになります。
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禅は自分を見つめなおすものです。
「洗心」という禅語があります。「心を洗う」ということですが、要するに、反省だとか自分を見つめなおすとか、日常の中で「自己の点検を怠らないようにする」ということであります。掃除を怠ければ部屋が汚れていくように、人間の心も手入れを怠れば、汚れていくものです。
誰もが生まれながらにして有している純粋な心を「仏性」と申しますが、誰かの仏性に触れ合ったとき、今の自分の生き方は正しいといえるだろうか?と自分に問いかけてみたいものです。そうやって今の自分を振り返る中で、気づかぬうちにたまってしまった心の垢に気づくかもしれません。
そんなとき、心の汚れを落とす必要性に気づくはずです。では、心の汚れを落とすには、どうすればいいのでしょうか?それは、善行を積むということです。他を思いやる、他に感謝する。他人の指摘を素直に受け入れ、改善していく・・・。長年、溜まってしまった心の垢は、簡単には落としきれないかもしれません。
それでも、何度も何度も洗っていくうちに、自然と元の純粋な心が蘇ってきます。それは、あたかも、泥水を何度もふるいにかけて、きれいな水にするような―それは、地道で根気のいる作業ですが、今、洗浄し始めた心が、一年後には、きれいになっているはずです。そして、もしかすると、一年後の世界には、今の自分とは違った自分がいるかもしれません。それは、皆さん次第です。
(文献は勝林寺のHPより引用、画像はYAHOOより引用させていただきました)